六間道商店街は、新長田地区の一番南に位置しています。六間道は大正時代、駒ヶ林と兵庫を結ぶ主要道として、人や荷車の往来が多く、次第にこの両側に商店が建ち商店街が形成されていきました。
昭和にかけて栄え、お客様が道にあふれ、商店は夜の10時まで営業し拍子木の音とともに店を閉じました。
戦時中は六間道にとっても暗い時期となり、廃業する店も多く、六間道の道の広さから防空壕が掘られました。
そして、終戦。
焦土と化した中で六間道は焼け残り、近隣から「六間道へ行けば何でもある」と人が群がるように集まってきました。淡路、四国からもお客様が来られたほどです。
しかし昭和30年代頃になると、新開地・三宮はすっかり立ち直っており、六間道だけの時代はすでに終わっていたのです。
六間道があまりにも交通条件から離れた南にあるという不利が目立ちはじめ、周辺部も少しずつ変わっていきました。駒ヶ林の海岸も埋め立てられ、白砂が消えるとともに、長きに渡り伝統行事であった「駒ケ林左義長」(※注)も昭和34年以降、過去のものとなりました。
昭和50年代に入ると若手が立ち上がり、全国的にも例を見ない商店街の公園化を進め、人工芝を敷き、噴水、ベンチ、水のみ場、モニュメント、電話ボックスを備え、全国各地から見学者が訪れるようになりました。
そして、昭和52年に六間道商店街振興組合を創立します。平成7年1月17日、阪神淡路大震災では43あった店舗が25店舗に減少。その後震災復興が進む中、商店街北側は再開発事業に組み込まれ、平成13年7月、待望の地下鉄駒ヶ林駅が開通しました。
平成16年3月には二葉町五丁目再開発ビルが完成、4月にはアグロ・ガーデンが開業し周辺環境も整ってきました。そして、昭和34年に設置されたアーケードが築45年経過し老朽化が著しく進み、阪神・淡路大震災で多大な損害を受けたことから2004年に現在の開閉式アーケードが設置されました。
また、横山光輝氏のゆかりの地であることから、新長田南地区をあげて「三国志」を用いたまちおこしも行われ、今もなお、三国志の町としてファンの方や海外からの観光客が訪れる商店街となりました。
先人たちの熱い想いを踏まえ六間道らしい人情あふれる、人に優しい商店街として、
人々に愛され続ける商店街を目指し、皆様のお越しをお待ちしております。
※ マンホールに描かれた駒ケ林左義長
長田区にある駒ケ林神社では、988(永延2年)に始められたという左義長 (とんど)という行事が行われていました。左義長については、古い記録にも残のこされています。 正月15日に、竹を燃やして爆発させ、その大きな音で、鬼を追おい払はらっていたようです。駒ケ林の左義長は二基の「お山」をぶつけ合うという全国的にも珍しい形態で、勝った方がその年の網入れの優先権を得るところからかなり勇壮なものだったそうです。
その後、左義長はだんだんと派手になっていきます。丸太の木材を組くんで担ぎ棒にし、その上に青竹を立たて、ササやワラでまいてサカキをかざり、高さ20メートル以上もある「お山」を3基作ります。そのうちの1基は、勝負の審判をする行司役です。残りの2基で、東西の村に分わかれ、倒し合いをして争いました。左義長は、時には血の雨が降るほど白熱し「駒ヶ林のけんか祭り」ともいわれ、駒ヶ林の浜辺には各地からの見物の人で埋まるほどでした。
しかし、祭りで争う村が無くなったことや、浜が次第に埋め立てられて左義長をする場所がなくなったことなどから、1959年(昭和34年)1月15日を最後に中止されました。
長田区にある双葉小学校の創立70周年を記念して、2000年(平成12年)1月15日には、二葉小学校のグランドで左義長が行われました。この時の左義長には、子どもたちに伝統行事を伝え、街の人々に元気を取とりもどしてほしいとの願いが込められていました。左義長は、他の区でも、毎年正月のしめなわや書かきぞめなどを、組みあげた竹たけの中に入れて焼やき、新しい年の無病息災無を願って行われています。